酒井宏樹 プロフィール
名前:酒井宏樹
生年月日:
身長/体重:185CM/78KG
出生地※:長野県
Jリーグ初出場:2010/5/5
Jリーグ初得点:2010/10/31
日本代表出場試合数:74回
在籍チーム:浦和レッズ
ポジション:DF / MF
背番号:2
利き足:右足
酒井 宏樹(さかい ひろき、1990年4月12日 – )は、長野県中野市[2]出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッズ所属。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。日本代表。
株式会社ASSIST取締役。
経歴[編集]
プロ入りまで[編集]
父親の故郷である長野県中野市で生まれる。「宏樹」という名前は父親から「樹」の一字を取って名付けられた。幼い頃に千葉県柏市に引越し、年の離れた2人の兄の影響でサッカーを始め、小学3年生の時に地元のクラブチームに入団[4]。当時はフォワードを務めていた。
小学6年生の時、一度練習に参加したことがきっかけで、柏レイソルの下部組織で練習生としてプレーするようになり、2003年、中学入学と同時に柏レイソルU-15へ正式加入。
吉田達磨の指導の下、酒井、工藤壮人、比嘉厚平、山崎正登、武富孝介、仙石廉、指宿洋史、島川俊郎、畑田真輝という計9名のプロ選手を輩出した柏レイソルユース「黄金世代」の一員として、初めは右サイドハーフ、中学3年生頃から左サイドバックを担当。吉田はディフェンスラインの裏へ出て行くタイミングの良さや、スペースへ入ってくる選手にクロスを合わせる独特の感覚を持っていた酒井の才能を見抜き、あえてオフェンス面には手を加えず、課題のあったディフェンス面やポジショニングを中心に指導を行った。
2006年、柏レイソルU-18へ昇格。同年、U-16日本代表に選出され、フランス遠征を経験した。
高校3年次の2008年、比嘉と共にトップチームの2種登録選手となったが、公式戦出場はなかった。柏レイソルU-18の選手としては、第32回日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で準優勝を飾ったほか、ビジャレアル国際ユーストーナメントでは、リヴァプール、アヤックス、セルティックといった強豪を破って3位に輝いた。
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柏レイソル時代[編集]
2009年、工藤、比嘉、山崎、武富、仙石と共にトップチームへ昇格。同年6月、武富と共にサンパウロ州選手権1部・モジミリンECへ留学した[10]。モジミリンでは右サイドバック、センターバックとしてプレーし、特に守備面で大きな経験を得たが、11月の帰国後も公式戦出場は叶わず、J2降格の憂き目に遭った。
2010年、J2第11節ヴァンフォーレ甲府戦で公式戦初出場。J2第32節水戸ホーリーホック戦で公式戦初得点を記録した。主にレギュラー不在時のバックアッパーとして、リーグ戦9試合に出場し、クラブも1年でJ1へ復帰した。
2011年、右サイドバックとしてプレーした練習試合で2アシストを決めたことがきっかけとなり、J1第7節大宮アルディージャ戦に先発出場。それまではセンターバックの選手と見做されていたが、右サイドでレアンドロ・ドミンゲスと強力なコンビを形成してレギュラーに定着すると、一気に大ブレイク。同年5月、U-22日本代表に初選出され、10月にはA代表にも初選出された。最終的にリーグ戦27試合に出場し、Jリーグ史上初となる昇格初年度でのJ1優勝を達成。Jリーグベストイレブン、Jリーグベストヤングプレーヤー賞を同時受賞した。2011 FIFAクラブワールドカップでも全4試合に出場し、サントスFC戦で得点を記録。同監督のムリシ・ラマーリョから称賛を受けたほか、FIFA公式サイト上で茨田陽生と共に「柏の誇るヤングスター」と紹介された。
2012年、前年の活躍により、FIFA公式サイト上でチアゴ・アルカンタラ、ユリアン・ドラクスラーらと共に「2012年注目の若手選手13人」として取り上げられ、ボルシア・ドルトムントなど7、8の海外クラブから獲得オファーが舞い込む争奪戦となったが、最も獲得に熱心だったドイツ・ブンデスリーガのハノーファー96への移籍を決断[20]。柏でのラストゲームとなったJ1第16節ガンバ大阪戦を6-2の圧勝で締め括り、ドイツへ渡った。
ハノーファー時代[編集]
2012年7月1日、移籍金約100万ユーロ(1億円)でハノーファー96へ移籍。契約期間は3年間、プラス1年のオプション付き。入団直後にクラブを離れて参加したロンドン五輪では、初戦スペイン戦で左足首を捻挫。1次リーグ2試合を欠場した後、決勝トーナメントからスターティングメンバーに復帰し、ベスト4まで勝ち進んだが、惜しくもメダル獲得を逃した。
2012-13シーズン、UEFAヨーロッパリーグ予選プレーオフ第2戦シロンスク・ヴロツワフ戦で移籍後公式戦初出場。ブンデスリーガ第4節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初出場を果たした。ロンドン五輪参加のためシーズン前のキャンプに参加できなかったことに加え、ブンデスリーガのプレースピードの速さや、柏時代とは大きく異なるチーム戦術への適応に苦しみ、試合に出られない時期が続いたが、シーズン終盤には出場機会を増やし、右サイドハーフとして先発した第33節レバークーゼン戦でブンデスリーガ初アシストを記録した。
2013-14シーズン、スティーブ・チェルンドロの負傷離脱もあり、開幕から右サイドバックの定位置を確保。第11節ヴェルダー・ブレーメン戦でゴール正面約30メートルの距離から強烈な無回転シュートをネットに沈め、ブンデスリーガ初得点を記録した。冬のリーガ中断期間に期限付き移籍で加入したチェコ代表のフランティシェク・ライトラル(英語版)にもポジションを譲らず、右膝蓋腱炎を抱えながら出場を続けていたが、チームの1部残留確定後は休養した。
2014-15シーズン、一時期控えに回ることもあったが、シーズン終盤はスタメンに復帰し存在感を見せた。
2015-16シーズン、ハノーファー96に山口蛍も加わり日本代表が3人になった。酒井自身は、26試合に出場。第31節のインゴルシュタット戦では得点を挙げたが、チームは降格となった。契約満了によりこのシーズンでハノーファーを退団した。
オリンピック・マルセイユ時代[編集]
2016年6月24日、フランス・リーグ・アンのオリンピック・マルセイユへの完全移籍が発表された。この時スコットランドのセルティックFCやオランダのアヤックス・アムステルダムなどからもオファーが来ていたが、日本代表ヴァイッド・ハリルホジッチ監督からアドバイスを貰ったこともあり、マルセイユを選んだという。8月14日に行われたトゥールーズFCとの開幕戦でデビュー戦をフル出場で飾った。2017年2月12日、第25節のFCナント戦で初アシストを記録。移籍1年目となった2016-17シーズンは、GKヨアン・プレを除くフィールドプレーヤーで出場時間最多となる35試合(計3012分)に出場し、レギュラーとして活躍した。右サイドでコンビを組むフロリアン・トヴァンからは「酒井のおかげで良いシーズンが過ごせたと言うのは、恥ずかしい事ではない」と好評し、リュディ・ガルシア監督からも今季の出来を称賛された。
2017年8月7日、ディジョンFCO戦にて2年連続で開幕節からスタメンで出場し、9月29日にマルセイユと2021年まで契約延長したことを発表した。2018年4月12日、UEFAヨーロッパリーグ準々決勝2ndレグRBライプツィヒ戦で終了間際にマルセイユ移籍後初得点となる貴重な追加点を挙げ、チームの14年振りのELベスト4進出に貢献した。しかし同年4月23日の第34節リール戦で内側側副靭帯を損傷し、3週間の離脱を余儀なくされた。
2019年5月18日、リーグ・アン第37節のトゥールーズFC戦でリーグ初ゴールを挙げた。シーズン終了後にファンが選んだ年間クラブMVPに選出された。
2021年5月24日、5年過ごしたマルセイユを退団することをSNS上で発表した。
浦和レッズ時代[編集]
2021年6月10日、J1リーグの浦和レッズへの完全移籍が発表された。Jリーグでは9年ぶりのプレーとなる。8月14日、第24節のサガン鳥栖戦で移籍後初出場を果たした。
2022年、チームの副キャプテンに任命された。
2023年、チームのキャプテンに任命された。
日本代表[編集]
2012年5月23日、キリンチャレンジカップ・アゼルバイジャン戦で国際Aマッチ初出場[1]。その後は同じ右サイドバックを務める内田篤人と出場機会を分け合いながら、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選、FIFAコンフェデレーションズカップ2013などに出場した。2013年11月19日に開催された国際親善試合ベルギー戦では、得意のクロスボールから柿谷曜一朗の先制点をアシストし、3-2の勝利に貢献した。2014 FIFAブラジルワールドカップのメンバーにも選出されたが、本大会での出場機会はなかった。
2018年6月、ロシアワールドカップメンバーに選出され、第1戦目のコロンビア戦でW杯初出場を果たした。本大会は4戦全てにフル出場し、チームのベスト16に貢献した。その活躍ぶりを仏レキップ紙は「日常的にリーグ・アンで活躍し、W杯で記録を残している外国人選手」7人の内に酒井を選出しており、セネガル戦のユスフ・サバリとのマッチアップは素晴らしい攻防だったと評価している。
同年11月16日、大分銀行ドームで行われたキリンチャレンジカップのベネズエラ戦にて、日本代表49試合出場にして初のゴールを決めた。
2022年11月1日、2022カタールW杯に臨む日本代表に選出された。3大会連続のワールドカップ選出となった。初戦のドイツ戦でスタメン出場を果たすも、後半に負傷交代。その影響でGL残り2試合を欠場するも、決勝トーナメント1回戦のクロアチア戦で途中出場から復帰を果たした。しかし、チームはPK戦の末敗れ、目標のベスト8進出は叶わなかった。
プレースタイル[編集]
スピーディーかつダイナミックなオーバーラップと、右足から放たれる鋭利な高速クロスが持ち味のサイドバック。フランスに渡ってからはセンターバックもすることが有る。2011 FIFAクラブワールドカップにおけるプレーは、FIFA公式サイト上で「日本版ダニエウ・アウヴェス」、イタリア紙ガゼッタ・デロ・スポルトからは「右サイド版長友」と喩えられた。
サイドバックとしては恵まれた体躯を持ち、外国人選手との激しいフィジカルコンタクトにも屈しない。高い身体能力は、柏レイソル時代のフィジカルコーチであるカルロス・アルベルト・ピメンテウから「アジリティー、パワー、スピード、持久力、どれもパーフェクトに近い。どんなフィジカルコーチでも、ああいう選手と仕事をしたいと思うだろうね」と絶賛されている。元日本代表監督のハリルホジッチは「柔軟さと度量があって、申し分のない選手だ」「モンスター級のフィジカルを持っている」とフランスメディアLe Phocéenのインタビューに答えている。
2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれ、「ドイツで最高レベルの経験を積んだ後、フランスに渡った。日本では海外で成功した選手としての象徴」と評された。
高速クロス[編集]
高速のクロスボールは、しばしば彼の代名詞として語られる。ユース時代のチームメイトである工藤壮人は「酒井はあのクロスをジュニアユースの頃から蹴っていた」と証言している。
高速クロスを上げる際は、本人曰く「人に合わせるよりもスペースに出すような」イメージで、右足のインサイドでボールの側面をこすり上げ、内側に回転をかけている。回転のかかったボールは相手ゴールキーパーから逃げるようにカーブの軌道を描き、ゴール前で急速に落ちていく。
また、振り抜かれる右足のモーションが小さく、対面する相手をかわし切る前でも自分の間合いに持ち込めば蹴ることが出来るため、ブロックを受けにくい点も特長である。
人物像[編集]
• プライベートは、謙虚な性格であり、柏レイソル時代の先輩・北嶋秀朗からは「謙遜の酒井」と評された。日本代表の練習中にも、アルベルト・ザッケローニ元監督から「ことあるごとに『ごめん』と謝るのをやめるように」と注意を受けている。
• ジンクスとしては、柏レイソルジュニアユース、ユース、プロと、いずれも1年目はほとんど試合に出られなかったことから「僕はいつも1年目があまりよくない」と語る。「ハノーファー移籍1年目」となった2012-13シーズンも、リーグ戦の出場は13試合に留まった。
• 2011年7月3日放送『やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜』内の企画「ハーイ!やべっち」に出演。好きな食べ物はカレーで、好きな女優は臼田あさ美であると語った。また「ジミー大西に似ていると言われる」と明かし、番組MCの矢部浩之から「ジミーちゃん、やってる?」とコメントされた。
• 2014年8月10日、一般女性と結婚。翌年1月14日、Twitter上で第一子が誕生したことを発表した。
• 競技は違えど同じフランスでプレーしていたという共通点から五郎丸歩とは親交があり、家族ぐるみでの付き合いがあるという[65]。
• 2019年9月20日、大津祐樹と共に 株式会社ASSIST 設立。取締役就任。『FootballAssist』プロジェクト始動。
所属クラブ[編集]
• 1999年 – 2002年 柏マイティーFC(柏市立富勢西小学校)
• 2003年 – 2005年 柏レイソルU-15(柏市立富勢中学校)
• 2006年 – 2008年 柏レイソルU-18(千葉県立柏中央高等学校→第一学院高等学校)
o 2008年 柏レイソル(2種登録選手)
• 2009年 – 2012年 柏レイソル
• 2012年 – 2016年 ハノーファー96
• 2016年 – 2021年 オリンピック・マルセイユ
• 2021年 – 浦和レッドダイヤモンズ