清武弘嗣 プロフィール

名前:清武弘嗣

生年月日:1989/11/12
身長/体重:172/66
出生地※:大分県
Jリーグ初出場:2008/8/9
Jリーグ初得点:2008/8/9
日本代表出場試合数:43回











-幼少期-

父がサッカーしていたのと、4つ上の兄もサッカーをやっていたので僕も自然とボールを蹴っていました。初めて蹴った時の記憶はないですが、ビデオを見返すと、3、4歳くらいでドリブルしていましたね。チームに入ったのは小1です。明治北小学校にあった明治北SSCという少年団に入りました。自分も憧れていた三浦アツさん(三浦淳宏)を育てた新庄道臣先生が元々監督だったのですが、僕が小4の時に明治北小の教頭になって、そのタイミングで父が明治北SSCの監督になりました。小学校時代の思い出は、4年生の時に出た全日(JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)です。ハーフナー マイク選手のいた札幌FCと対戦して負けるなど、全敗して、「全国って凄い」、「もっとやらないといけない」と思い、翌年の全日では3位になれました。明治北SSCはゲーム中心の練習で、月曜以外は毎日練習していました。基本は攻撃ですが、ポジションは全部やっていました。PKの時はGKもやっていましたね(笑)。

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-中学~高校-

中学時代は、カティオーラFCに入ります。新庄先生が作ったチームなので、明治北SSC出身の選手は自ずとカティオーラに上がる感じでした。ただ、当時は新庄先生が教えるわけではなく、僕はなかなか合わなかった。走りの練習や、とにかく体力作りのトレーニングが多くて馴染めず、サッカーを楽しめなかったんです。そういった中で、中3で大分トリニータU-15に移りました。きっかけは、弟の功暉です。元々、カティオーラとトリニータはライバル関係であり、父が今まで築いてきた新庄先生との関係も考えたら、自分から「トリニータに移りたい」とは言えなかった。ただ、一つ下の功暉もカティオーラに入ってきて、秋ごろに「合わないから、トリニータに行く」とハッキリ言ったんです。「コイツ、スゲェな」と。そんな功暉に助けられて、僕もトリニータU-15に移ることになりました。当時のトリニータU-15のコーチが吉武(博文)先生で、父とも知り合いで父が相談してくれたら、最初はセレクションとして1週間ほど練習生で入りました。そこからはめちゃくちゃサッカーが楽しくなりました。同級生の井上裕大とコンビを組んで、FWをやっていました。中3は僕にとって分岐点でしたね。2年分を取り戻すように、楽しくサッカーできました。中学生の思い出としては、中1の時に日韓W杯があり、大分で開催されたイタリア対メキシコとセネガル対スウェーデンを見に行きました。当時の作文に、「将来は日本代表になってW杯に出たい」と書きました。中3の時、トリニータU-18の練習に参加させてもらいました。梅崎司くんや周ちゃん(西川周作)が高3にいて、衝撃を受けました。「こんな人たちがいるんや。絶対ココに上がりたい」と思いました。ただ、大分トリニータU-18での3年間は、苦しかったですね。1年目は、小手(小手川宏基)と2トップを組んで点も決めて、順調だったんですよ。ただ、2年目以降は、ほぼサッカーしていません。病気して入院したり、高2の10月から高校卒業まではケガでサッカーしていません。高2の10月に第五中足骨を折って、12月に一度くっついたのですが、その後、翌年の2月に参加させてもらったトップチームのグアム合宿で左足の小指が折れました。すぐ日本に帰ってトップチームのドクターに手術してもらったのですが、3ヶ月経っても骨がくっつかず、「再手術しかない」と。保存治療の選択肢もあったのですが、2ヶ月で治るかも知れないけど、完治するか分からなかった。再手術は骨移植だったのですが、確実に半年はサッカーができない。再手術すれば治る可能性は高かったのですが、次にサッカーできるのは早くて12月。トップ昇格は難しいし、大学の推薦もないから無理やなと思って、サッカーを辞めようと思ったんです。子どもが好きだったので、保育士を目指そうと思っていたら、「トップに上げてやるから手術をしろ」と当時の強化部の原(靖)さんに言ってもらいました。多分、“トップチームのキャンプでケガをしたから、治るまで面倒を見てあげるよ”ということだったと思うのですが、僕からしたら、「ありがとうございます」という感じでした。こんなにケガばかりする選手、トップに上げても未知数だったと思うし、トップ昇格できたことは周りに感謝です。

-プロ以降-

高3の12月に、骨は完全にくっつきました。プロ1年目は最初からサッカーできました。今の時代とは違って怖い先輩もいて、練習もピリピリしていました。一つのミスもできない、みたいなプレッシャーを感じていました。1年目の思い出は、J1デビュー戦でJ1初ゴールを決めたことです。2年目に出場数を伸ばしたのですが、チームが第4節から14連敗して勝てず、選手を入れ替える中で出場数も増えた感じです。途中から就任した(ランコ)ポポヴィッチ監督との出会いも大きかった。若手に厳しく、練習量も多かったのですが、自分がいかに甘く考えていたかを思い知らされました。「調子に乗らず、ひたむきにやれ」みたいな感じで、僕は一度3ヶ月、干されました。そこで気付けて、その3ヶ月は誰より練習した自負があります。心身を鍛えることができました。プロ3年目の10年にセレッソに移籍します。キャリアの中でもターニングポイントになりましたが、最初は大分に残る気満々でした。地元のチームですし、中3で僕を救ってくれて育ててもらったクラブ。トップに上げてくれた感謝もあったので、もう一度、自分が中心になってJ1に上げたい気持ちもありました。ただ、ポポ(ヴィッチ監督)がいなくなることも確定し、色々考えた上で最後はセレッソに行くことに決めました。セレッソからのオファーに関しては、後から聞いた話では、セレッソは当時、自分ともう一人の選手で迷っていたらしいです。僕は当時から(香川)真司くんと仲が良かったのですが、真司くんが小菊さんに「絶対にキヨの方がいい」と言ってくれたようです。それを聞いた小菊さんが強化部に言ってくれたのか、僕に声がかかりました。それが、僕がセレッソに来ることができた経緯です。真司くんとの出会いは年代別代表でした。当時からズバ抜けていて、手の届かない存在でした。10年は、真司くん、乾(貴士)くん、アキちゃん(家長昭博)。この3人が2列目にいたので、僕はやることをひたすらやるしかなかった。夏に真司くんがドルトムントに移籍して、自分が試合に出るようになりました。真司くんのようにはできないけど、自分の役割を全うしようとプレーしていましたね。セレッソに来た10年からの3年は濃かったです。あの時は疲れもなく、イケイケでした(笑)。試合ができる喜びの方が大きく、楽しかったですね。11年は、結婚もして、日本代表にも選ばれて、人生としても転機でした。結婚するということは、一生面倒を見るということ。頑張らないといけないと、プレッシャーもありました。当時は大分と大阪で離れていたのですが、結婚を機に大阪に呼びました。責任感は増しました。代表デビューに関しては、まさか試合に出られるとは思っていなかったです。岡ちゃん(岡崎慎司)が前半でケガをして、家長くんと松井大輔さんと僕にアップの声がかかりました。家長くんが「キヨ、あるぞ」と。「あるわけないじゃないですか」って言っていたら、(アルベルト)ザッケローニ監督に呼ばれました。「えっ?」みたいな感じでした(笑)。そしたらアシストもできて、自信になりました。ロンドン五輪に出た12年も充実していましたね。めちゃくちゃ楽しかったです。この夏にドイツへ移籍することになりました。元々、海外志向はなかったので、凄く悩みました。ただ、僕は単純な人間なので、ニュルンベルクの強化部長が僕に13番のユニフォームを見せてくれた瞬間、「行きます」と(笑)。実際に行ったドイツでの4シーズンは、めちゃくちゃ楽しかったです。行って良かったと思いました。生活もサッカーも日本とは文化が違う中で、いい経験ができました。家族も呼んでみんなで暮らして、両親も招待できました。ドイツにいた4年は全て中心でやらせてもらったので、充実していました。ポジションはずっとトップ下でした。ハノーファーも良かったですよ。当時の監督が(酒井)宏樹に、「どんな選手だ?」と聞いたようです。宏樹が推薦してくれたおかげもあって、プレーすることができました。最後の半年は(山口)蛍も来て、短かったですが、3人で過ごした期間は濃かったです。

海外での5シーズン目は、スペインのセビージャに移籍しました。開幕前の、レアル(マドリード)との(UEFA)スーパーカップからスタメンで出させてもらって、デビュー戦となったリーグ開幕戦で1ゴール1アシストできました。当時のセビージャはサンパオリ監督、コーチにリージョがいて、ポジションを取りながらボールを保持して試合を進めるサッカーで、その中で自分がどうプレーするか難しかったですが、ドイツとはまたスタイルも違って、楽しかったです。ただ、2試合目のビジャレアル戦がそんなに良くなかった。その後、日本代表での活動期間中に(サミル)ナスリが来て、一気に序列が下がりました。そこからあまり試合に出られなくなり、厳しい世界だなと。翌年、セレッソに復帰します。「日本に戻るならセレッソ」という思いはずっとありました。受け入れてくれたチームには感謝しかないです。戻った年に二冠を獲れたことは本当に嬉しかったです。ただ、個人としてはケガが続き、特に繰り返した18年は本当に引退しようかなという思いもありました。ケガを気にして100%で走れないし、それだと若手に示しもつかない。何よりサッカーをやっていても自分が楽しくない。もう引退やなと。ただ、父から「ケガしてもいいやないか。全力でもう一回やってみろ」と言われて、そこからはケガを気にしなくなりました。父の言葉は大きいですね。ロティーナ監督の下でプレーした19年、20年は新たな引出しも増えました。特に20年は8得点8アシストできて、いいシーズンでした。セレッソでのシーズンは、今年でトータル10年目になります。来た当初を考えると、ここまで長くいることは想像できませんでした。移籍1年目、「サッカーってこんなに自由なんだ」とサッカーの楽しさを教えてくれたのがこのクラブでした。その時からずっと印象は良いままです。キャプテンも5年連続でやることになりました。自分自身も結果を残さないと生き残っていけないプレッシャーもありますし、チームとしても、リーグを獲るならこの1、2年だと思っています。いいメンバーも揃ったし、練習の強度も高い。謙虚にやるべきことをやっていけば、結果は出ると思います。個人的には、セレッソに来た10年は頭も使わずイケイケでした。自由気ままにやっていましたが、今は経験値も増えて、あの時よりは頭も使えるようになりました。色んな監督にも出会って、色んなサッカーをやってきて、それも全て含めて今はサッカーを楽しめています。まだまだ、これからもサッカーを続けていきたいですね。

経歴

大分トリニータU-15→大分トリニータU-18→大分トリニータ→セレッソ大阪 →FCニュルンベルク(ドイツ)→ハノーファー96(ドイツ)→セビージャFC(スペイン)→セレッソ大阪


代表歴

U-17日本代表

U-21日本代表

U-22日本代表

U-23日本代表

日本代表

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