渡邉千真 プロフィール

名前:渡辺千真

生年月日:1986/8/10
身長/体重:182/79
出生地※:長崎県










渡邉 千真(わたなべ かずま、1986年8月10日 – )は、長崎県南高来郡国見町(現・雲仙市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・松本山雅FC所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。

兄の渡邉大剛、弟の渡邉三城も元サッカー選手。

来歴

プロ入り前

7歳(小学校2年生)の時に兄・大剛の影響でサッカーを始め、2002年、国見高校に進学する。同校サッカー部では1学年上の平山相太、兵藤慎剛らと共に攻撃をリード。2003年度のインターハイでは得点王に輝いた。さらに同年度の全国高校サッカー選手権を制覇。当時は主に攻撃的MFを務めていたが、平山らが部を引退した3年時からはFWでプレー。2004年度の高校サッカー選手権にはキャプテンとして出場し、厳しいマークに晒される中でも正確なプレーで ベスト4入り。

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3年時の秋には、翌年開催されるワールドユース・オランダ大会の予選を兼ねたAFCユース選手権2004のU-19日本代表として、高校サッカー部から唯一招集され、平山とポジションを争った。準決勝・対韓国戦で1得点を挙げたが、ワールドユースメンバー選出は叶わなかった。

2005年、早稲田大学に進学。ア式蹴球部に入ると、1年時から出場を重ね、2年時からはレギュラーに定着し、2006年、2007年と2年連続で関東大学サッカーリーグ得点王を獲得。関東大学リーグ戦では当時のリーグ記録となる通算62試合で37得点を挙げた。大学サッカー界では「天才」「怪物」とも称され、4年時には複数のJリーグクラブによる争奪戦となった。

横浜F・マリノス

横浜F・マリノス監督の木村浩吉の「ポジションを空けて待っている」という口説き文句もあり、2009年、横浜FMへ入団。兵藤とは高校・大学に続きプロでもチームメイトとなった。新人ながら背番号「9」を与えられ開幕戦でスタメン起用されると前半3分に初得点を決める。4月14日にはこの年のJリーグ新人選手の中では最速でプロA契約を締結した。チームの得点源として活躍し、城彰二以来、史上2人目となる新人でのリーグ戦二桁得点を達成。またJ1第32節神戸戦でシーズン13点目を挙げ、城が記録した新人最多得点記録を更新した。

同年12月21日、アジアカップ最終予選を戦うA代表に初招集され、翌年1月6日のイエメン戦で先発出場し、国際Aマッチ初出場を記録。平山相太の得点をアシストしハットトリックをお膳立てした。

2010年に横浜FMの監督に就任した木村和司からは、攻守の切り替えや味方へのパスの要求を課題に挙げられ、出場機会が徐々に減少。2010年にはチーム内での最多得点を挙げたものの、目標としていた2年連続での二桁得点 には届かなかった。2011年のJ1第2節川崎戦では鬱憤を振り払う逆転ゴールを決め、ユニフォームを脱いで喜び警告を受けている。

同年末には、神戸浦和、FC東京 など複数クラブから獲得の打診を受け、横浜FMとの契約更新を固辞。

FC東京

2012年、FC東京へ完全移籍。ポジション争いは厳しくJ1での出場機会は限定されたが、自身初参加となったAFCチャンピオンズリーグではFWルーカスに代わって1トップでの先発出場を続け、自らの得点でグループリーグ突破に貢献した。苦手としてきたポストプレーに取り組みながらもJ1第12節鳥栖戦にて自身初となるJ1でのハットトリックを達成した。

2013年は、新加入の李忠成らとの熾烈なポジション争いを制して 開幕からレギュラーを確保。前線からの守備やポストプレーを向上させたことに加え、ポジショニングを高め得点を量産。プレーの幅を広げてルーキーイヤー以来4年ぶりとなる2桁得点を記録し、J1第19節大分戦でリーグ戦自己最高となる14得点目を挙げた。しかしシーズン半ば以降は、スペースメイクに優れ、渡邉と好連携を築いていた東慶悟が トップ下からサイドハーフへとポジションを移したことも重なって、得点ペースを落としたがリーグ通算で17得点をマークした。

2014年はチームの2トップと3トップの併用に伴いウイングにも配され、サイドから得点を狙った。不振の続く中で武藤嘉紀の台頭もあり、第20節鳥栖戦で約1年ぶりのリーグ戦ゴールを記録したものの、同年は出場・得点共にFC東京加入以来最小の数字を残してしまった。

ヴィッセル神戸

FC東京との契約を残すも、2015年1月にヴィッセル神戸へ完全移籍。1stステージはマルキーニョスとの併用でセンターフォワード中心に配されたものの、中々得点を挙げる事が出来ず不調に終わった、2ndステージにレアンドロが加入して以降はポジションを1列下げての起用が続いたが、10月には2nd第15節山形戦のハットトリックを含め公式戦5試合で6得点とチームにフィットし、自身3度目のリーグ戦二桁得点を記録。チームをJ1残留争いから救った。同年のヤマザキナビスコカップでは、出場8試合で大会最多の7得点を挙げる活躍でチームを過去最高成績のベスト4にまで押し上げた。

2016年、監督のネルシーニョからチーム内での振る舞い、リーダーシップ、人間性などを評価され、自身初の主将に任命された。同年度は中盤左サイドで年間を通して安定したプレーを見せ、2トップのレアンドロ、ペドロ・ジュニオールとともにゴールを量産。リーグ戦33試合出場12得点を挙げる活躍で2年連続の二桁得点を達成した。専門誌採点では通年平均点においてチーム最高を記録し、クラブからも年間MVPとして表彰された。

2017年シーズンはレアンドロが開幕戦で負傷・長期離脱することになったためFWとしてプレーする機会が多くなったが、シーズン初ゴールは第11節の鹿島アントラーズ戦まで待つこととなった。キャリアにおいては2009年以来8年ぶりに全試合に出場した(途中出場含む)。

ガンバ大阪

2018シーズンは、若手や新加入選手の活躍もあり、先発出場が21節終了時点で10試合にとどまっていた中、J1残留を目指すガンバ大阪からオファーが届く。 当初、神戸側は渡邉の放出に消極的だったが、要求した長沢駿の期限付き移籍をG大阪が受け入れることで進展し、8月13日にG大阪に完全移籍する事が発表された。初戦となったベガルタ仙台戦ではスタメンで出場し、移籍後初ゴールも挙げた。また、第34節・柏レイソル戦でJ1リーグ300試合出場を達成した。G大阪ではリーグ戦13試合3得点の成績でチームの残留に貢献した。

2019年は前半戦は8試合の出場にとどまり無得点であったが、後半戦で出場時間を増加させ3得点を記録した。

2020年10月7日、第10節・サガン鳥栖戦にて史上15人目となるJ1通算100得点を達成した。

横浜FC

2021年、横浜FCへ完全移籍。シーズンを通してチームの主力として30試合4得点の成績を収めるも、チームはJ2降格を喫する。

2022年もチームに残留し、自身初のJ2を戦うシーズンとなる。

所属クラブ

1994年 – 1998年 国見FCジュニア (雲仙市立多比良小学校)

1999年 – 2001年 雲仙市立国見中学校

2002年 – 2004年 長崎県立国見高等学校

2005年 – 2008年 早稲田大学 (スポーツ科学部)

2009年 – 2011年  横浜F・マリノス

2012年 – 2014年  FC東京

2015年 – 2018年8月 ヴィッセル神戸

2018年8月 – 2020年 ガンバ大阪

2021年 – 2022年 横浜FC 2023年 –  松本山雅FC

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